柳田國男を辿る(4)

 椎葉を象徴する言葉「かてーり」

 椎葉を訪れる度、僕はいつもそのことを実感する。それは、村人たちの「助け合い」の精神であり、また、この村が重ねてきた優しい時間を象徴する言葉だと思う。

 椎葉に足を踏み入れた人たちが、僕と同じように、「なぜ?」と思うほどの、包み込まれるような優しさを感じているかは、確かめた事はない。

 でも、僕は自信を持って日本中の人に宣言できる。「かてーり精神は、ここを訪れるあなた方一人一人にも向けられているものです。」

 一一四年前、柳田國男が東京に帰って学会発表や『後狩詞記』の出版で吹聴しきれなかった事があるとすれば、正にこれだと僕は思う。何もかもが進歩発展していく明治の時代には、必要とされなかったかもしれない「かてーり」の精神は、今のこの混沌とした時代にこそ必要な事なのかもしれない。

 「かてーり」の共同作業で積み上げられた石垣は、災害や争いを克服して穏やかな暮らしを送るために、互いを思いやり、助け合う術を編み出してきた村人の思いを、僕たちに伝えてくれているではないか。

 那須久喜さんは、牛と蜜蜂を我が子のように手懐ける天才だ。蜜蜂たちの塊を素手で抱え上げるのには驚いた。

 家とその周りの畑と、谷のある放牧地と、そのあちこちに蜜蜂の巣箱の置かれた一帯の山は、久喜さんの仕事場であり、遊び場なのかもしれない。子供のような無邪気な笑顔をいつまでも見せてほしい。

 『弓の口開け』は風雅な催し物だ。大人たちがたっぷり時間をかけて弓を射る。口上を唱え、順番に射る。当たる、外れる。笑う。焼酎が入る。また射る、笑う。見る女たちも楽しむ。

 こんなにも長閑で楽しい行事を僕は見たことがなかった。的射にしても神楽にしても、椎葉の人たちは、神さんと一緒に楽しむ天才なのだ。

 

 柳田國男が旅の途中、椎葉へ入った目的の一つは、焼畑についての見聞を採集することだった。

 当時は村内で広く行われていた焼畑も、唯一椎葉クニ子おばあの家に細々と続けられるだけの時期が長く続いた。今、焼畑を継承する勝さんのもとには多くの仲間が集っている。向山地区の人のみならず、県外からも。

 勝さんの手のひらから撒かれるソバの種は、今年も花を咲かせ、来年の種を実らせた。

十年後も百年後も、この営みが続いていることを勝さんは信じている。

 柱に揺れる『稚児の神』。なんと可愛い神様だろう。

 中瀬淳村長の屋敷のある嶽之枝尾神社の春祭り。大人たちが酒宴で良い気分になった頃、境内では人間の稚児たちが走り回って遊ぶ。良ーく数えたら、いつのまにか一人二人、子どもの数が増えていたりして・・・?そんなことを想像してしまう。稚児の神様も遊びたかろうと。

 

 九年椎葉に通った。たくさんの子どもたちに出会った。どの子も、礼儀正しく、素直。中瀬村長の名前と同じ。それも偶然ではないように思えるから不思議。僕も随分ひいきになってしまったものだ。

(大河内の子どもたちの臼太鼓踊り)

 下松尾のもぐら打ち。子どもたちにはたまらなく楽しい行事だろう。普段なら叱られそうな事なのに、大声で叫びながら家々を周り、玄関先の地面を思いっきり叩いていい。しかもお菓子やお餅がもらえるのだ。

 無邪気に、素直に伝統の中に育つ子どもたちが、椎葉の未来だ。