柳田國男を辿る(1)

柳田國男の歩いた椎葉を少しでも体感するために、それから一一四年後のこの夏、僕は南郷の市谷から笹の峠を目指した。
朝とは言え、強い日差しの為に草いきれの湧き上がるような斜面。徒歩の柳田が汗をかきながら、ここを登って行ったことは容易に想像できる。見晴らしの良い出鼻に立った時には、南郷方面を見晴らして、ふうーっと一息ついたのだろう。
ここは当時、馬で貨物を運ぶ『駄賃付け』の道でもあった。端綱を引く馬子たちも難儀したろうが、荷を背負った馬たちは、さぞ辛かったろう。
当時の駄賃付け道はもう見つけることはできなかったけれど、凡そそのルートに近く、くねくねと九十九折りに進んでいく林道や作業道がある。僕は軽トラを走らせながら柳田國男の汗を想像し、申し訳ない気持ちから、思わずエアコンを切り、窓を全開にするのだった。

中瀬淳宛柳田國男書簡(釈文) 明治四一年一〇月二五日付
拝啓 最早紅葉も色付候ことゝ山中一層御なつかしく存候 さて椎葉ニ於ける見聞ハ小生を益し候事極めて大にして帰来色々の方面の人にも話をし、偶然にも御村を天下へ風聴する結果と相成申候
来月十一日にハ又東京二於ける有力なる一学会二於て焼畑に関する小生か調査を報告し、かねて椎葉ニ於ける観察をも述可申考に候
而して更に御多忙なる貴下ニ学問上の御助力を煩し度願有之候
御地方と雖、猪ハ段々少なくなり、猪狩の慣習も将来漸く衰え候事他地方の山村と同しからんと想像せられ候か、其に先ちて貴下の如く熱心なる猪狩人の居らるゝ間に記録して世ニ伝へ度ハ山中の地名二有之候
御承知の通山とか谷とか麓とかいふ名称ハ平地ニ住する人民の見聞にて付与したる名詞なれハ其数少く到底山地々形の委曲を尽すこと能ハす、而も一方ニハ地理学の研究ハ益細微ニ入るニ折角国民か昔より使用せる語ありなから之をすてゝ外国語の飜訳を用ゐるハ不本意にも有之、又当を得さるの恐も有之候故、御地方なとニて狩人の山中に通暁せる者の使用するハエとかニタとかいふ種類の方言を凡て集め置度小生考に候
斯道の大家山崎教授(直方氏)なとも之を切望せされ候間、何とそ御ひまに御心掛御集め被下、可成は画又ハ文字にて詳しき御説明を御附被下度候
猪狩の慣習ハ五六百年前迄全国ニ通したる高等娯楽なりしか、今ハ何方にも見る能ハさる世となりし也
椎葉人の名誉の為細かき記録として永く学界に存し置度ものニ候
うぢ引のみことの呪文オコゼの伝説の類も凡て伝ふるに足れり、殊に惜きは急忙の際大河内の椎葉徳蔵君宅にて見たる狩の儀式を記せる巻物を細読せざりしことに候 小生もし浪人をせは金のある限を路銀としてかゝることをさがしに諸国の深山をあるく考なれども不幸にして人望あり極めて多忙なる故せん方無之候
今日日曜の当直にて此手紙をしたゝめ居候へは飯干峠の中腹にて握飯をくひ靑山に白雲飛ひカッコ鳥のなきし光景明瞭に眼前に浮び無邪気なる馬方の顔もあらはれなつかしく存候諸君によろしく御伝へ被下度候
四十五年ハ延期となりたれど見るへきもの多けれは近々御上京可被成、拙宅にて必御とめ可申候
草々頓首 十月二十五日
柳田生 中瀬様 御前
《出典》森岡清美編『諸国叢書』第三輯 成城大学民俗学研究所発行 (昭和六十一年)

(以下筆者抄訳)
拝啓
もう紅葉も色付いているだろうと、山の中の事が懐かしく思われます。さて椎葉での見聞は、私にとってとても有益で、帰京して色々の方面の人にも話をし、偶然にも御村を天下へ吹聴する結果となりました。来月十一日には東京の有力な学会に於いて、焼畑に関する私の調査を報告し、椎葉に於ける観察も話そうと思っています。
そこで、更に御多忙なる貴方に学問上の御助力をお願いしたいのです。椎葉といえど、猪はだんだん少なくなり、猪狩の慣習も将来は徐々に衰えていくことは他の地方の山村と同じであろうと想像されます。その前に、貴方のような熱心な猪狩人のおられるうちに記録して、世に伝承したいのは山中の地名です。御承知の通り、「山」とか「谷」とか「麓」とかいう名称は、平地に住む人の見聞でつけた名詞なので、その数は少なく、到底山地の複雑な地形を十分に言い表すことはできません。
地理学の研究は進んで行く中、せっかく国民が昔から使用してきた言葉があるのに、これを全て外国語の飜訳を用いるのは不本意でもあり、又、正確に言い表せない恐れもあるので、御地方などで、山中に精通した狩人が使用する「ハエ」とか「ニタ」とか言う種類の方言を全て集めておきたいと私は考えています。この方面の大家、山崎直方教授などもこれを切望されていますので、何卒お暇な時に心がけて集めておいて下さい。そして可能なら、絵か文章で詳しい説明をつけていただきたいのです。
猪狩の慣習は五、六百年前まで、全国に共通した高等娯楽でしたが、今はどこでも見られるものではなくなりました。椎葉人の名誉の為、詳細に記録し永く学界に残したいものです。『うぢ引のみことの呪文』『オコゼの伝説』の類も全て残す価値のあるものです。  特に残念なのは時間がなかったため、大河内の椎葉徳蔵君宅で見た狩の儀式を記した巻物を詳しく読めなかったことです。私が仕事を辞められたら、金のある限りを旅費として、こういう事を探して諸国の深山を歩くつもりですが、不幸にして人望を得て、極めて多忙なためにそうもいきません。
今日は日曜の当直で、この手紙をしたためていますと、飯干峠の中腹にて握飯を食い、青山に白雲が飛び、カッコウ鳥の鳴く光景が明瞭に眼前に浮かび、無邪気な馬方の顔も無性に懐かしく思い出されます。皆さんによろしく御伝え下さい。
四十五年は延期となりましたが、東京も見所も多いので、近々上京が叶えば拙宅にて必ずお泊めしたいと思います。
草々頓首

柳田國男がここを通って椎葉に入ったのは明治四十一年(1908年)の七月十三日。エリート官僚である柳田は福岡・熊本・鹿児島・宮崎を巡り、各地で農業に関する視察・講演をする旅の途中だった。  九州各地で聞き集めた情報の中で、特に椎葉の焼畑や人々の暮らしに興味を持ったらしい。宮崎から大分へ向かう途中、県庁の職員を伴って九州脊梁山地に分け入り、六泊七日を費やして椎葉の各地を歩き、話を聞き、資料に触れた。この椎葉滞在から生まれたのが、翌年自家出版された『後狩詞記(のちのかりことばのき)』である。後に日本民俗学の祖と呼ばれる柳田の学者としての第一歩が、ここで踏み出されたと言って良い。
三十三才の青年柳田國男がその一週間をどう過ごしたか、誰と会って何を見たか?何を食べたか?同じ体験はできるはずもないが、今も多くの人が柳田と同じように椎葉に惹かれてこの山里を訪れる。それは僕も同じ。  『ONLY ONE Shiiba』の取材で椎葉を訪れるようになって9年。これまでに見聞きした椎葉の暮らしの物語、撮りためた写真を柳田の旅と重ねてみたい。そう思った。これは『後狩詞記』と『ONLY ONE Shiiba』にまつわる、僕の心象風景である。

笹の峠は標高1、340メートル。頂上は見晴らしが良い。ここで柳田は村の人たちと対面したのだろうか。
ある本によると、当時は中央の官僚がこの山の中を訪れることはほとんど無かった。中瀬淳村長は、道の両側の草を刈らせ、羽織袴姿で峠まで出迎えに行ったと述懐している。峠で待っていると、旅姿ではなく紋付に平袴、白足袋といういでたちの貴公子のような若者が下から登ってきた。それが柳田國男だった。
中瀬村長の後年の述懐だから、誇張されている所もあるのだろうが、その時の柳田がそれほど清々しく活気に満ちた人物であったことは確からしい。

僕はといえば軽トラの窓から、飛び込んでくる虻たちにうるさく付きまとわれ、徒歩の柳田や村長たちには申し訳なかったけれど、再び窓を閉めエアコンをオンにした。
令和四年(2022年)の笹の峠越えは、正味車で2時間ほど。途中、登山道を歩いて頂上に到達するのに、往復で30分というところだった。現在の林道は、急勾配を避けてくねくねと蛇行しているから、昔の尾根伝いに最短距離を行く道とは、自ずと距離が違うのだろうが、それにしても、柳田の、いや100年前の人たちの健脚ぶりには脱帽せざるを得ない。
頂上付近の道は、おそらく駄賃付け道がそのまま残っているのだろう。中央が三角に窪んで、まるで川底を渡っていくように思える。多くの人が馬が、荷物が、川の流れのように行き過ぎた細い道。ここを通って柳田國男は椎葉に足を踏み入れたのだ。

椎葉初日は松尾の庄屋、松岡久次郎宅に泊まる。久次郎はその時四十九歳。笹の峠越えの駄賃付けによる交易や耕作、植林を大規模に行い、豪壮な邸宅を構えていた。
『宮崎県大観』によれば、「知事その他役人、民間人を問わず、ここを通る人は松岡邸に泊めてもらうのが常だった」。また、「好んで客を待遇し、気を吐き、時に斗酒を傾けて平然たるものあり」と言うくらいだから、柳田も椎葉最初の夜、松岡久次郎に勧められて、いくらか焼酎でも傾けたのだろうか? それとも、翌日からのフィールドワークに胸を高鳴らせ、宴席を抜け、庭に出て空を眺めたかもしれない。  豪壮な屋敷は今は見ることはできないが、大イチョウは今でも当時のまま、風に揺れることもなく立ち尽くしている。この木だけはその夜、自分の枝の下に立った若者のことを、今でも覚えているはずだ。

僕にも、椎葉を取材し始めた頃の松尾の思い出がある。今から9年前だから、柳田國男から数えて105年後の夏、あてもなく車を走らせていて、行き当たった古民家。青々と育った稲と、手入れの行き届いた庭。いかにも椎葉らしい立派な平屋に近づいて、声をかけると、優しい笑顔のお母さんが、丁寧に対応してくれた。
椎葉イトノさん。冷たいお茶を出してくれた。松尾の庄屋の話を聞かせてくれた。先述の『宮崎県大観』を開いて昔の事を教えてくれた。そうして最後に、恥ずかしがりながら、立派な杢目の入った柿の木の箪笥の前で写真を撮らせてくれた。
椎葉の人はこんなにも優しく、礼儀正しいのか。と痛感した時間だった。
数年後、この家は映画『しゃぼん玉』の舞台になった。映画を見るにつけ、僕には林遣都演じる主人公の荒んだ心を癒す市原悦子の「おばあ」がイトノお母さんその人に思えて仕方なかった。
僕の長い長い椎葉の旅も、あの日、松尾からはじまったと言っても良いかもしれない。

つづく