柳田國男を辿る(2)

柳田が椎葉二日目と五日目に宿泊したのは、桑弓野の郵便局長黒木盛衛邸だった。当時の役場も近くにあり、今はダムの底に沈んでいる。

柳田旅から百年以上が経ち、椎葉は民俗学発祥の地として広く知られるようになった。秋に開催される椎葉平家まつりには、二万人とも言われる観光客が訪れる。大和絵巻武者行列や郷土芸能のパレードは賑やかに椎葉銀座を彩る。豊かな山の幸も振る舞われ、村民も観光客も夢のような時間を過ごす。
コロナ禍や台風被害で中止を止むなくされる年が続いたが、またあの賑わいが戻る日は近い。

柳田を迎えた当時の中瀬淳村長の旧宅。柳田がここに宿泊することはなかったが、村長は椎葉滞在六泊のうち五泊を各地の名士の家に同宿している。
さて、その中瀬淳邸は今、一人の教育者が住み、守っている。綾部正哉氏。教員を定年退職した後椎葉に移住し、二十二年にわたってこの家に住み、教育者としての示唆を求めて訪ねてくる後進たちを、今でも受け入れている。
『民俗学発祥の地』の碑と中瀬村長の像の建つ庭で、突然訪れた僕に怪訝な顔ひとつせず、丁寧に話をしてくれた綾部先生。
中瀬村長が若き柳田の椎葉採集旅行と帰京後の『後狩詞記』出版を献身的に支えた精神は、今もここに残っているように思えた。

柳田國男が三日目に目指したのは大河内。
この夏の台風の影響もあって季節がずれてしまったが、僕はまた軽トラでその道を辿ってみた。上椎葉から小崎川沿いを行き、臼杵俣から入って飯干峠を越える。台風被害で路肩が崩れたり、アスファルト舗装の波打った道路を注意しながら進むと、やがて飯干峠の頂上に辿り着く。
少し開けた森の中の広場に車を止め、頂上らしき場所を探してみる。笹の峠と同様に熊笹に覆われた稜線にコナラが林立していた。  冒頭に紹介した書簡の中で、柳田はこう言っている。
「飯干峠の中腹にて握飯をくひ靑山に白雲飛ひカッコ鳥のなきし光景明瞭に眼前に浮び無邪気なる馬方の顔もあらはれなつかしく存候」
カッコウの声をしばらく待ってみたが、結局聞くことはできなかった。同行の馬方も中瀬村長も居ないが、せめて握り飯をくう気分だけは・・・、と自前の大きなやつを取り出して、ドングリの転がる落ち葉の上に腰を下ろした。

大河内で訪ねたのは椎葉徳蔵邸だった。庄屋屋敷ではなく、わざわざこの家を宿としたのは、椎葉徳蔵が近頃手に入れたと聞き及んだ『狩の傳書』が目当てだったらしい。
柳田自身も後にこの古文書が「日本の民俗学の出発点」と呼んだ。昭和二十九年の大水害で椎葉徳蔵邸も『狩の傳書』も失われてしまったのは残念だが、その存在が長く後世に残されたことは、その一夜の、男たちの語り合いが産んだ奇跡と言えるかもしれない。
※遺影写真は椎葉徳蔵(右)とその後を継いだ善次郎(左)。

椎葉司さんご夫婦を初めて訪ねたのは七年前になる。その時はもちろん、柳田の足跡を辿り始めたつい最近まで司さんが椎葉徳蔵さんの孫であることは、知る由もなかった。
初めは、ご夫婦が作る柚子胡椒の取材だった。司さんの助けを借りて君代さんが作る柚子胡椒は絶品で、椎葉の特産品売り場でも人気商品だった。僕は、君代さんのそれを手本にして自分で柚子胡椒を作ることを覚えた。
司さんはあの時、蜜蝋を僕にくれた。蜜蜂の巣箱の内側に塗って、蜂を誘い込むためのものだ。残念ながら僕はそれを活かしきれず、未だに蜜取りに成功したことはないが、二人の優しさには感謝しきれない。
去年も今年も二人を訪ねてみた。連絡もなしに急に訪ねるのに、まるで待っていたかのように玄関の土間に二人で座って迎えてくれて、お茶と、干し柿や甘い小豆餅でもてなしてくれた。
家の歴史について丁寧に話してくれる司さん。水害で流された昔の屋敷の話になると、さすがに僕も笑顔ではいられなくなる。君代さんが、流失した家や亡くなった方の記録を見せてくれた。幸せなことばかりが歴史ではない。今年の二人にはそんなことを教わった気がした。