小川の向こうのあやかさん

大倉亜也加さんは、小川の向こうの一軒家に住んでいます。道路からは人は渡れるけど車は渡れない橋、(そうですねえ、リヤカーか馬程度なら渡れるくらいの鉄の橋)がかかっています。 「大雨が降るとちょっと心細い」 なんてこともありますが・・・向山日添、小川の向こうの一軒家は彼女にとっては最高に居心地のいい住処なのです。なにせ、こんにゃく芋や紫蘇が勝手に芽を出してくれて、お茶や梅やユクリが勝手に葉や実をつけてくれる斜面の畑つきですから。

※ユクリ(イクリ)はすももの一種の果物

彼女は愛知県出身、もう五年以上も前から椎葉に通っていましたが、二年前に移住して、椎葉に根をおろしました。  クニ子おばあの生き方に惹かれ、初めは民宿に泊まり、焼畑の体験や農作業の手伝いをさせてもらう旅行者でした。それがいつの間にか、村人になってしまった。いろんな場所を見てきた末に椎葉を選んだ亜也加さんの、六月の梅雨の晴れ間のとある一日です。

その家は決して大きくはありませんが、亜也加さん一人には十分な広さ。以前は大家さんがビデオテープを収納していたという棚には今、梅干しや漬物、雑穀の種などを入れた瓶が並んでいます。  野菜や米や肉(猪肉や鹿肉)などの食料は、買うというより、村の人たちから貰うことがほとんどだそう。水道も湧き水を引いているし、風呂を沸かす薪も村の人たちが山仕事のついでに運んできてくれたりする。電気を明々と灯すのは好きではないし、テレビも置いていないので、電気代は少ししかかかりません。  愛知ではIT企業に勤めてバリバリ働いていた彼女ですが、ここでは時々村の人たちから頼まれる山仕事や土木作業のアルバイトで得られる収入で十分やっていけるのです。働きすぎると自分の畑の世話をする時間がなくなるので、今はちょうどいいバランスで暮らせているそうです。

今日は、日添のちか子さんと一緒にとうきびの草取りと大豆の種蒔きをする予定。朝、準備を済ませて家の前に出て、小川の中をチョロチョロと泳ぎ回るエノハを目で追いかけながら待っていると、川向こうの道路にちか子さんの車が停まりました。

「おはよーう」 「おはようございます。鍬は持って行った方がいい?」 「私が持ってきてるから、持って行かんでいいよ。」

向かうのは地区にあるお寺『称専坊』。そこはちか子さんの実家でもあるので、畑を借りて作物を作っているのです。

畑につくと、まずは70センチほどに伸びたとうきびの間に生えた草取りです。「サクッ、サクッ」という鍬の音と、とうきびの葉の擦れ合う音、鳥のさえずりと風の音。静かな時間がゆっくり流れます。  時々鍬の音が止んで「ふう」というため息。二人とも腰を伸ばして小休止です。 「とうきびは、ちゃんと草を引いて肥やしをやらんと良い実はならんとよ。草を引いたらね、茎に土を寄せて被せてやると。」

次に大豆の種まき。ちか子さんが鍬で浅く掘った穴に亜也加さんが3、4粒ずつの種を蒔いていきます。白大豆と青大豆が混ざったままだけど、それはお構いなし。 「使うときも混ざったまま使うから、混ざって育ってくれても良いでしょう。」と亜也加さん。 「あははは、今年は美味しい味噌がたくさんできるわ。」とちか子さん。 なんとも大らかな畑仕事です。

畑を見下ろせる称専坊の境内から二人に声がかかります。 「ジュース冷えてるから飲みなさい。」 「じゃ、ちょっと休もうか。」 しばらくするとまた別の声。 「上椎葉に行ったから、アイス買ってきたよ。」 「アイス溶けるから、休もうか。」 そんなふうに、なかなか仕事ははかどりませんが、二人は焦る様子もなく、ゆっくり休憩してはまた、作業にとりかかるのでした。

季節は梅雨、これから夏野菜が育ってくる。負けじと畑や家の周りの草もぐんぐん育つ。草刈りに追われる季節です。梅干し作りも本番、夏になれば焼畑が待っている。仲間と始めている雑穀クッキーの商品化も本格的になってきて、のどかな暮らしとは言えないくらい、やることはたくさんあるのです。  でもね、それもこれも全部、自然のリズムに合わせて進めること。「焦らなくていいよ。」そんな大きな安心感が二人を包んでいるようでした。  「大豆はある程度育ったら、ウラを摘んでやると横芽が多く伸びてたくさん実るよ。」 「ツユクサは花は可愛い草だけど、畑に生えるとどんどん増えて困るから、見つけたらすぐに抜いておくこと。」  そんな知恵をいくつも聞きながらようやく大豆を蒔き終えた頃にはもういい時間。 「さ、お昼にしようかね?」 二人は称専坊の庫裡に入って行きました。